気仙沼伝説・・・『皆鶴姫』

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 気仙沼の『ホテル一景閣』の『スナック皆鶴姫』で

 気仙沼ジャンさんが大暴れしたとか言う『皆鶴姫伝説』ではありません・・・





   気仙沼伝説・・・『皆鶴姫』・・・





 源義経が牛若丸を名乗って京都の鞍馬寺にいたころ、

 時の住職鬼一法眼の娘『皆鶴姫』と恋仲となった。



 鬼一法眼は家祖伝来の兵法書を秘蔵していたが、

 源氏再興の志を抱いていた牛若丸は、

 秘蔵の兵法書を『皆鶴姫』に頼んで持ち出させた後、奥州平泉の藤原秀衛のもとに走った。



 このことが露見し、姫は法眼の怒りを買いうつぼ舟に乗せられて海に流された。



 義経はある夜、悪夢で本吉の浜(鹿折浜とも、ゆりあげ浜ともいわれている。)に舟が漂着したことを知る。

 馬を飛ばして海岸伝いに探すと、

 浜人に非常にも押し返された舟が松岩母体田の海岸に流れ着いていて、大勢の人が集まっているのを見つけた。



 そこで義経は、耳と鼻をそがれ非業の死を遂げた『皆鶴姫』と対面する。

 その手には母の形見と言っていた行基作の観音像が握られていたと言う・・・



 義経は、姫の菩提を弔おうと観音ゆかりの寺をさがすと

 室根山麓南流山観音寺があったので観音像を託し建立を誓ったが、

 頼朝挙兵の報に鎌倉に馳せ参じた。



 これを聞いた気仙沼の人達は、

 縁深い観音像なので気仙沼で祀りたいと寺に願い出て海岸山に観音寺を移した。




 義経は『皆鶴姫』から託された兵法書により、百戦錬磨の活躍で平家を滅ぼすが、

 同じく頼朝に疎まれる事となる・・・

 後に頼朝に追われて落ち延びて来た義経は、観音寺を訪れ皆鶴姫の菩提を弔ったと言う・・・



 観音寺には、姫を乗せて漂着したといううつぼ舟の舟底、

 義経が使っていたという笈、弁慶が袈裟を掛けたという袈裟掛けの岩などがある。











 絵本の「皆鶴姫伝説」と内容は違っています・・・









 絵本『皆鶴姫伝説』・・・



 昔、義経が牛若丸と言ってた頃・・・、

 修行のために預けられた「鬼一方眼」の娘「皆鶴姫」と恋仲になった。

 「鬼一方眼」が所持していた「兵法書」(六韜三略)を皆鶴より手に入れた義経は、

 機熟したり・・と奥州平泉へと旅立った。

 兵法書が無くなっているのを気づいた方眼は、皆鶴姫を「うつわ舟」に乗せて九十九里浜から流しました。

 その時皆鶴姫の母は、一体の「観音像」を皆鶴姫に渡しました。

 来る日も来る日も流され続け・・、

 皆鶴姫は気仙沼、母体田(もたいだ)の浜に打ち上げられました。

 浜人は姫の高貴な姿に畏怖をなし、海に戻そうとしたところを

 仏祖の信望の厚い、おじいさんおばあさんに引き取られ、ようやく元気を取り戻しました・・・。

 日が経ち、秋がくる頃、皆鶴暇は玉のような男の子を産みましたが、

 産後の日だちが悪く・・日に日に弱っていきました。

 ちょうどその頃、平泉で過ごしていた義経は「皆鶴姫」の夢を見、

 それを正夢と信じた義経は馬を走らせ急ぎ母体田の浜に向かいましたが、

 義経が到着した時には姫は息を引き取っていた・・・・。







 で、気仙沼ジャンさんが脚色するとこうなります・・・





 気仙沼伝説・・・『皆鶴姫』




   気仙沼伝説・・・『皆鶴姫』・・・(気仙沼ジャンさんチョット脚色)





 源義経が牛若丸を名乗って京都の鞍馬寺にいたころ、

 修行で訪れた寺の住職、鬼一法眼の娘『皆鶴姫』と恋仲となった。



 鬼一法眼は家祖伝来の兵法書六韜三略)を秘蔵していたが、

 源氏再興の志を抱いていた牛若丸は、

 秘蔵の兵法書を『皆鶴姫』に頼んで持ち出させた後、奥州平泉の藤原秀衛のもとに走った。



 兵法書が無くなっているのを気づいた方眼は激怒し、

 加担した『皆鶴姫』を舟に乗せて九十九里浜から流した。


 舟は『皆鶴姫』の思う義経のもとへ流れて行き

 気仙沼の母体田(もたいだ)の浜に打ち上げられた。


 
 浜人は姫の高貴な姿に畏怖をなし、非常にも海に押したが、

 返された舟が松岩母体田の海岸に流れ着いて、

 仏祖の信望の厚い老夫婦に引き取られ、ようやく元気を取り戻した・・・



 日が経ち、秋がくる頃、『皆鶴姫』は玉のような男の子を産んだが、

 産後の日だちが悪く姫は、日に日に弱っていった。



 ちょうどその頃、平泉で過ごしていた義経は『皆鶴姫』の夢を見、

 それを正夢と信じた義経は馬を走らせ急ぎ母体田の浜に向かった。

 高貴な武将が訪ねて来た事に、老夫婦は疑念を抱き姫の子を隠し育てる事とした。


 
 そして、義経が到着した時に、姫は既に息を引き取っており、

 その手には母の形見と言っていた行基作の観音像が握られていたと言う・・・




 義経は、姫の菩提を弔おうと観音ゆかりの寺をさがすと

 室根山麓南流山観音寺があったので観音像を託し建立を誓ったが、

 頼朝挙兵の報に鎌倉に馳せ参じた。



 これを聞いた気仙沼の人達は、

 縁深い観音像なので気仙沼で祀りたいと寺に願い出て海岸山に観音寺を移した。




 義経は『皆鶴姫』から託された兵法書により、百戦錬磨の活躍で平家を滅ぼすが、

 同じく頼朝に疎まれる事となる・・・

 後に頼朝に追われて落ち延びて来た義経は、観音寺を訪れ皆鶴姫の菩提を弔ったと言う・・・



 そして、初めて親子の対面を果たすが、

 頼朝からの身の危険を感じた子は中国に渡り、チンギス・ハーンとなった・・・ 
  

                              
                                ・・・完・・・